この手のインタビューで、よく聞く話ですが、
まずは今回のカメラがどういう経緯で開発に至ったかについて。
基本的に、開発をする技術者が、自分たちはこういうものを開発したい、
ということがあって、それがベースになっています。

一方、私の考え方としては、マーケティングも含めて、
どうすれば大手と違うモノを市場に出すことができるかを常に考えていました。
主要メーカーがこれは作らないであろうという要素を全部選び出していって絞り込み、
万人受けしないので大手だとやらないというところに敢えてこだわった部分はあります。

例えばマニュアルフォーカスだけでいいのかという議論があり、
大手であれば使い安さの観点から間違いなくオートフォーカスでないと
駄目ということが企画段階で決まってしまうと思うのですが、
それを敢えてマニュアルフォーカスだけにして、
ユーザーがユーザーの技量によってそこから得られるアウトプットが
異なるというところを明確にしてしまうと。
言ってしまえば大手は優等生的なカメラをつくるので、
優等生でないちょっとゴツゴツしたもの、でも方法、
手段は充分に提供して上手に扱えば優等生的なカメラと同等、
もしくはそれ以上のものが撮れるであろうというものを、考えたいと思いました。
でも、大手がやらないものって考えてみると、
だいたい受けないから大手はやらないんですよね。
そうですね。(笑)
つまり、大手がやらないものをやるっていうのは、
受けないものをワザワザやることになるのですが、
なぜそんな考えになりましたか。
大きな理由の一つとしては、多くの人に受けないので
数がでないような物はやらないという常識的な考えにチャレンジする姿勢があります。
大手の宿命としては、ある程度の数を市場に出さないといけないというものが
前提としてあると考えられますので難しいのですが、
小さな我々は最初から数を出さなければならないという
前提を取っ払ってしまいました。
そうすると、一部のカメラが好きな人達に評価して頂けたらいい、
万人受けしないでもいいということになるので、
かなり取っ払うことのできる要素というのが増えて、
肩の荷が下りる部分もあるだろうと考えました。
そこには「数が出ないでいい自由」があったってことですね。
はい。(笑)
図体がデカイと数が出ることが必須になるのですが、
図体がデカクないので数が出ないでもいいや、という自由がチノンさんにはあった。
そうでなければ、そもそもこのカメラは生まれなかったということですね。
現在、レトロなデザインのデジタルカメラというのはトレンドですが、
チノンはレトロなデザインのスチールカメラではなく、ムービーカメラを持ってきた。
それは、過去にレンズ交換ができない一眼レフ(ジェネシス)とか、
観音開きのカメラ(今回のカメラの名前の元になった初代Bellami)とか、
ユニークなカメラを出してきたチノンらしい選択とも言えますが、
今回のBellami HD-1ほど、時流と反対方向を向いたものって、
実は世の中にあまりないですよね。
そうですね。例えば外観デザイン主導の成型品でユニークな形、
今までなかった形にするという方法もありますが、
そういう視覚に訴えるユニークさだけを目指したのではなく、
コンセプト自体がユニークなカメラとして考案されています。
また、デジタルカメラでは、我々が電子部品、電気部品を作る事はできないので、
そのような設計制限のあるなかでどのような部品を使うかを考え、
その中でユニークさを出していくことが重要になります。
例えばセンサーであれば、通常は一般コンシューマ向けデジタルカメラに使われない
センサーを敢えて使うとか、そういう選択の部分で違いを出して
ユニークなカメラに仕上げています。
出来上がったカメラも、えって思うようなハイスペックが入っていたり、
先ほどお話に出たオートフォーカスのような当たり前とも言える
機能が敢えてなかったり、高度な運動能力と遊び心が混在しています。
そこがとてもユニークなところですよね。
技術者とゴツゴツしたものを作りたいねと話していて、
そのゴツゴツっていうのはまさしく今おっしゃって頂いたところです。
ですから、ある意味でユーザーにチャレンジしている部分もあって、
これは色んなことができますよ、でもそれはあなたが考えて工夫してやってください、
ただその為に必要な色々なものは提供しますよ、というのがこのカメラのスタンスです
しかし突然、なんでこんな冒険的カメラが出てきたのか!というインパクトは相当ありますね。
それと同時に、田舎にある小さな会社がこういう製品を約20年ぶりに
今出すという事は、それなり価値があるのかなと思っています。
やりたいと思っていてもなかなか実現出来ないと考えている人も
沢山いらっしゃると思いますので。
ただ、楽では無いけれども方法はあるんだよ、っていう1つの例になれば、
ものすごく嬉しいですね。
構想はいつからあったのでしょうか。
開発チームであるイメージリンクの仲間と共に、
20年近く前からユニークなもので自分達の完全なオリジナル製品を出したいと
ずっと想いとしては持っていました。
それが具体的に見えてきたのは、デザインが具体的になり、
仕様を考え出したあたりなので、3年くらい前です。
3年前と今ではデジタルカメラの状況は大きく異なるので、
今このカメラがリリースされることは、その冒険度と危険度は格段に高くなっていて、
と同時にユニーク度も高くなっていますね。
いやほんとに、何を考えているのかわからないって言われるのが普通だと
思いますね。今のこのタイミングでデジタルカメラなんて、
市場も冷えている時に何をいまさら新しいものを出すのかと。しかし、
ある意味で市場とか環境がむずかしくなればなるほど、面白みは増すとも言えます。
まあ、他人事としてはそうですが。(笑)
Bellami HD-1はどういうカメラだと考えていますか。
これは私自身の想いなのですが、ムービーカメラが一般に普及してきた初期
というのは、「記録」するという目的より、「撮ることの面白さ」が
勝っていたと思うのです。撮ることは記録するという事に違いないのですが、
今まで出来なかった面白さ、自分が何かこう試してみたらこんな画(え)が撮れた、
自分の家族の写真がこんな風に撮れた、というところが大きな楽しみだった
と思うのです。そこからどんどん機械が発展して、どう撮っても、
何処で撮ってもきれいな画が撮れるようになってしまって、
撮ることの面白さが小さくなって、記録装置という無機質なものに
変質したような印象があります。

チノンは「カメラをもっと面白く」ということをキャッチフレーズとしているので、
今の市場に出ているカメラは、「誰が撮っても同じように上手に撮れますよ」、
というところで、結果ではなく、その過程が面白くないのです。
もう一度、「撮ることの面白さ」に戻って、ユーザーが何か工夫をして
その結果面白いものが撮れるというような、ユーザーの技量に委ねる部分を
大事にするような製品こそが、今の市場に必要なんじゃないかと思ったのです。

今回のBellami HD-1の場合は、例えばオートフォーカスがないので、
自分で嫌でもフォーカスを合わせたり、自分で工夫しないと画にならないという
ところがあります。それが必然的にユーザーの関与する部分が大きくなり、
出来上がった映像に対して自分が関与する比率が大きくなる。
そしてそれは「撮ることの面白さ」を取り戻すことになると考えたのです。
まぁ、何もしなくていい今のカメラに比べたら面倒くさいですよね。
ピントを合わさないといけないし、絞りもどうにかしないといけない。
でもデジタルになっているお陰で工夫した結果はすぐに確認できるので、
そこではデジタル的な良い事は享受しつつ、初期のムービーカメラのような
工夫する楽しみも味わえるようになっている。
Bellami HD-1のようなユニークなカメラが出てくることは、
我々にとっては大歓迎なのですが、これを作る側の立場になって考えた場合、
やはりあまりに冒険ですよね。
そうですね。経営者としてはあまり良くないかもしれないのですが、
そういう意味ではビジネスよりもブランドや製品そのものへの想いの方が
すごく先行してしまっているっていう前のめりの姿勢。こういうものを出したい、
こういうことをしたいということがまず先にありきで、
それが先行し過ぎてしまっている部分がある事は否定できません。
それと同時に自虐的ではありますが、せっかくそういう舞台がそこにあるならば、
下手かどうかは別にしても、そこで踊ってみても悪くないのかなと、
他の人が踊らないような踊りをそこで踊ってどう評価されるかを見てみたい、
自分自身で見てみたいっていうのはあります。
Bellami HD-1はどういう人が使ってくれると考えていますか。
与えられたもので無難に撮れる事に物足りなさを感じている人達ですね。
例えば自分でカメラを買ってきても違うレンズは付かないだろうかとか、
もっと違う組み合わせで何か違った画が撮れるんじゃないのかとか、
そういうことを考えたい人達にひょっとすると喜んでもらえるのではないかと。
ですからカメラとかビデオカメラ、広い範囲でのデジタルカメラ、
それからもっと前のカメラを比較的知っていて、
今のカメラ自体があまりに自分の技術とか自分が慣れる事によって
結果が変わらないということに何となく面白くなさ、
物足りなさを感じている人達がターゲットとなるでしょう。
マーケットセグメンテーションとしては多分に抽象的な表現なんですけれども。
それは自力の人みたいなことですかね。
そうですね。自分で何かしないと気のすまない人。
例えばガンダムとかでもそうですが、
きれいに出来上がっている完成品を買いたい人ではなく、
自分がやってちょっと腕が曲がってしまったり、何か不格好になっても、
自分で作らないと面白くないっていう、
自分で何かを作りたいっていう人たち向けになると思います。
例えばビデオカメラだったら、用途としては子供の成長記録っていうのが
やっぱり大きくて、各社コンシューマ向けのビデオカメラっていうのは
皆そこをターゲットにしています。そこはターゲットに入りますか。
いえ。基本的にはあまり考えていないです。
記録として残しておくというのは失敗してはいけないという要素が
大きくあると思います、それは今出ているカメラのように誰が撮っても、
高度な知識がなくてもボタンを押せばある程度間違いなく撮れるというものが
適していると思うので、少なくともこのカメラで撮るのであれば、
自分が面白いと思える映画に仕立てるとかそういう要素がない限りは
向かないと言いますか、違う言い方をするとお子さんの運動会の
記録用としては失敗する要素があるカメラですので。
ターゲットとしては狭くなりますよね。相当、狭い。
そうです。撮影する事自体に楽しさ、面白さを感じる人が対象になると思います。
撮影する事自体に意欲があって、それが表現意欲って言うのか何かわからないですけれども、
カメラを使うという事はいわゆる表現意欲とは違うものがありますよね。
あれは撮影意欲っていうのでしょうか。その撮影したい意欲は
イコール表現意欲とは違いますよね。撮影意欲というのは、
表現意欲よりは登山をする意欲に近いようなことですよね。
そうですね。難しい条件で自分はその難しい条件を工夫とか
技術で乗り越えてこういうことが出来たというのが撮影意欲だと思うのです。
僕の周りにいるような若い子に渡すと純粋に面白がる。
今や皆が液晶で画面をみながら撮影しています。
画面と顔は数十センチも離れた状態でいつも撮っているから、
ファインダーに目をくっつけて撮ること自体が新鮮で面白いみたいですね。
そうですね。今おっしゃるようにカメラと自分の目の間に空間がないのです。
これは一人称のカメラなのです。先程おっしゃったように液晶を離れて見ると
三人称というか第三者の目で見ていて、それは自分でもなく対象物でもなく
どっかで言ってみればそれが映像となってテレビで見ている人の感覚で
画を見て撮っていると思うのですが、目にこう付けて自分で調節して
ボケたとかどうとかやる瞬間、自分しかそこにはいないわけです。
向かっている映像が「自分の映像」になるんですよね。
目に近づけて液晶を見ているってことだけなんですけど。
そんな些細なことで人間の感覚なんてコロッと変わる。
このカメラは手に持つとズシッとくる重さで、携帯で撮り慣れている人だと、
ちょっと重いと感じるかもしれない。でもその事自体で今撮っている自分の
映像が大事なモノに見えてくる。気分が変わると撮るものが変わり、
撮られたものも変わりますね。
ボディを金属にしたので、重さもそれなりにあります。
金属の質感も欲しかったし、レンズ交換式なのでレンズを受ける
部分の耐久性も必要でした。
ボディをプラスティックで作って、もっとおもちゃっぽいカメラとして
安価に提供すこともできたかもしれないけど、その方向にはいかなかった。
はい。それは1つには自分達のオリジナルのレンズだけではなくて、
いわゆるオールドレンズを使うことを想定しているからです。
オールドレンズには金属のボディが似合いますし、金属の耐久性が必要でした。
ですから非常にユニークで狭いところを狙ったカメラではあるのですが、
一方では既存のコンシューマ向けのカメラにはない、
過去に遡るような大きな拡張性を持っています。このカメラは非常に
狭い部分と非常に広い部分の両方持ち合わせる形になったと思います。
オートフォーカスでなくても良いと考えた結果、
使うことの出来るレンズの幅が大きく広がったわけです。
それは面白いところですね。チノンさんが様々なカメラを作ってきた流れがあって、
そして今も作りたいものはカメラだという結論があって、
こういうユニークなカメラが出てきた。チノンさんはデジタルハリネズミも
作っているのでBellami HD-1にはトイカメラ的な面白さも
内包されていながら、やっぱりカメラメーカーが作ったカメラになっている。
凄く面白いところですね。
レンズの話しをすると、自分自身も写真が好きですし、
フィルムカメラの時代には色んなレンズを組み合わせて使うことができたのですが、
デジタルになってまだまだ使える素晴らしいレンズなのに使えないという
事実に直面したわけです。このような事に開発とか製造とかに関係して
きた人間として寂しい想いもしていました。レンズ1つをを見ても、
この古いレンズにどれくらいの人が関わってどんな技術者が色々悩んで
ここまでのものに仕上げたか、と想像するだけでも古いレンズっていうのは
楽しいのです。けれど、そういうものが使えるところが非常に少なくなって
しまったので、今回のカメラの登場は、同じ思いを感じている人たちにとっては、
嬉しいことかもしれないと思っています。
面白いのは、チノンさん達は技術の方をやっているわけだから、
どっちかっていうと古い技術のことは忘れて新しい技術のことを
追いかけていくことが仕事になるので、本当はそれは矛盾しちゃうわけですよね。
でも、古いそういうものにやっぱり興味があって、古いレンズを見てなんと
かならないのかな、と思うところは、それは個人の資質に
もの凄く関係してることですよね。その個人的な拘りと会社の方向が上手い具合に
融合していますね、このカメラで。それはとても幸福なカメラですね。
技術革新とかブレイクスルーで一足飛びに新しい商品に変わっていく
ケースって言うのは沢山あって新規性の高い多くの商品というのはそうだと思うんです。
ただ新しいものが生まれる前提っていうのは必ずあって、
私はそこには切れているように見えても必ず継続性があり、
技術の継承があるのではないかなと思っています。
新しいものって言うのはその前提として存在する古いものがあって初めて
新しいものがでるというふうに思っているものですから、
古いものを意識しないで新しければ良いというのは個人としても嫌ですね。
本当に個人としての想いみたいに思っているところ。非常に資質に近いような部分。
もったいないとかね。古いものでいいものあったのにな、とかね。
みんな忘れているけどあれはいいよっていう今のものよりいいものいっぱいあるよとか、
見た目も美しいよとか、すごくいいものだったっていう。
そういう部分と、あとは仕事としてオールドレンズを考えた場合
あれはなかなか生半可なものではないよ、というようなことでね。
でも、その仕事は今やもう無くなりかけていたり、レンズ自体も使い道が無くなっていたり、
捨てられたりっていう事になる。Bellami HD-1は、
そういう想いを汲み取ることができた新商品っていう、そこが面白いとこですよね。
天の邪鬼な人が作った天の邪鬼なカメラなんですが、
それはイコール個人的な想いが強く出た製品だということだから、
それはいつの時代に出てもそういうものっていうのは面白いですね。

デジタルカメラをレトロなデザインにして、ちょっとレトロテイストの
デジタルカメラつくりましたと、中身はピカピカの最新で外は昔懐かしの
アナログふうにしてみました、っていうものとは実はまったく全然違うんですよね。
レンズの部分での考え方っていうのは、
古いレンズをどうやったら使えるのかっていうのがスタートになっていますので、
考える方向としてはだいぶ違いがあります。
高校生とかが映画とか撮ってほしいですよね、これで。昔は8ミリ映画を
やっている人は大変な思いをして、あの現像代とフィルム代を捻出していたわけですけど、
これならデジタルの経済性も手に入るわけですからね。
Bellami HD-1は、自分の色を出す事ができるカメラ、
ある意味で撮影者の思いとしての映像として特徴を出しやすいカメラだと
言えるので、面白い使い方をしてもらうと嬉しいですね。
その人がこのカメラで撮った映像なり、映画は、他の人は撮れないと思うんです。
今の凄く良い機材を使うと割と簡単に色んな画が撮れてしまって、
尚且つコンピューターで処理をすればいいやってとこがあると思うのですが、
そうではない画が撮れるし、撮りたくなるのではないかと思っています。